教収−教生収容所の略<んなわけあるかい!>


初乗車、完了しました。
結果は・・・。
(><)ウエーン


泣きそうでした。<でも残念ながら泣きませんでした。たぶん表情もそんなに変わっていませんでした。>
自分のあまりの下手さにただでさえ低いセルフエスティームが落ちる落ちる。
まだこんなに落ちる余地が有ったのかと驚くほど。
そしてそれに追い打ちをかけるように教官の叱責が次々と飛んでくる。
グサッグサッ
そして
固い!!
と言われ、
すみません!!
と言ってますます固くなる体。


やはり普段から頭で考えて行動する癖がついているのですな。
身体を軽視してきた結果がこれですか。


そもそも、車って不合理だよな。
「軽く踏む」って何よ?
「ハンドルを切る量を覚える」って何処で覚えるの?
「小刻みに踏まない(回さない)」って、微調整しちゃだめってこと?
まあ、マックの長押しにキレるような人ですから。


だからといって運動音痴ではないのですよ。
球技は人並みに出来ますし、自転車にも乗ります。
自転車はどちらかというと飛ばす方ですし。
ただ、自転車は自分の体とほとんど変わらない感覚なのに対して、車<おおっと、ここは普通四輪と呼ばなければならないのですかな。>は大きすぎる。


しかし、まったく感覚がつかめないのに教習は進むという悪夢。


ああ。
あともう一つ。
ものすごい不条理を感じた。
勉強なら予復習や普段の読書、スポーツなら筋トレやイメージトレーニング、型の反復など努力の余地があるのに対して車はあくまで
感覚
なのだ(それだけじゃないかも知れないが、それなしではあり得ない)。<私が嫌いな言葉、「勘」「適当」「何となく」>
勿論、理論的な部分もあるだろうが、今の中途半端な知識は運転を邪魔こそすれ、ちっとも助けにならない。


嗚呼。
精密機械になりたい。
どうせ感情なんて邪魔なだけなのだから。


そうやって自分の無能さを痛感させられるとき、つくづく自分は「生かされている」のだと気づく。
普通ならここで他者の存在のありがたみを感じ、自分の思い上がりを反省するところであるが、私が感じるのは気持ち悪さだけである。
こんなことも出来ない自分
が、社会によって生かされている。
こんなに気持ち悪いことはない。<この気持ち悪さはフーコーの感じた気持ち悪さなのだろうが、イメージしやすいように言うと、「豚小屋で買われている食肉用の豚になった気分」になる。>


その社会に対して、お前らは無意味だーという思想を展開している。
これをルサンチマンと言わずしてなんと言うのだろう。
そしてそこまで解っていながら、ちっとも素直にならないこいつは何なんだろう。


とにかく本日の感想。
2度と車なんて乗りたくない!!

終わるのか、このレポート。


知は障害なり nullus