謝りすぎる。
謝りすぎて逆にキレられるぐらいだ。
卑屈すぎる人間を見れば怒りも湧く。
当然だ。


何故だろう。
理由は二つ考えられる。

一つはセルフエスティームが低すぎるということ。
私は自分のことを馬鹿でのろまで怠け者だと思っている。
謙遜でもなんでもない。
本気でそう思っている。
救いようのないやつだと。
そしてそれに対するいかなる他人の反論も受け付けようとしない。
君は理想が高すぎる、と言われるが、私は逆に周りの理想が低すぎると考える。
ここで問題になるのは、心理学的な立場から言えば、極度に自らを卑下するものは、実は周囲を見下げているという分析が成り立つということである。
確かにある時期まで私にはその分析が当て嵌まっていたといえよう。
しかし、ある時期を境に、私は自分のことを「真の意味で」能なしだと考えるようになった。
従って、そのような分析は「私」については言えたとしても<私>については言えない。
周囲から見ればこれほどつきあいづらいやつもいない。
本気で誉めてもそれを全て否定してかかるのだから。
友達が出来ないわけである。
(ちなみに<私>は友達なるものは特に欲しいとは思っていない。戦略的パートナーなら考えなくもないが。)


もう一つ考えられるのは、実は「私」は罰を受けることを臨んでいるのではないか、ということである。
これには、自らの努力を否定され、不条理な罰を受けることで、この世界が不条理であることを納得し、自らの失敗や努力の足りなさを合理化したい、という側面と、単に罰を受けたい(そしてその罰によって死に至りたい)という側面とがある。
前者は既に克服したつもりでいるから(だからこそこのように分析できているのだと思う)、後者なのかも知れない。
かくも自分がタナトスに取り憑かれていたことは感慨深い。
そしてそれには「悲劇の主人公」にでもなったつもりか!という批判を与えることにする。
そうやって自らの欲望を遂げようとする自分を戒めるのだ。
いや、そうすることで、自らを批判し、苦しめることが本当の狙いなのか?
以下無限後退


いずれにせよ、メタ自分は全てお見通しだ。
キサマには自らを誉めることは勿論、自らを罰することも許されていない。
運命と対峙し、ただそれを受け入れることがニヒリストとしての宿命なのだから。


な〜んて余裕かましているが、明日テストなのだ。
これから100頁、金融のテキストを読まなければ(そして覚えなければ)ならない。
就寝予定時刻まであと30分だけどね。