今日はクリスマス・イブらしい。
ニヒリストには関係のない日である。
ん〜。
アンチクライストとしては憎むべき日なのかな?
しかしニヒリストは憎しみも超越しなければならないのである。


ものがあふれている社会では、ありふれたものに意味を持たせるためにこのような日が必要なのだろう。
その経済効果はこの国でも億単位なのだろうが、その金が有れば、最貧国の何人が生き延びることが出来るだろうか。
くだらない飾り付けや欺瞞に満ちたイベント、無くても困らないプレゼントなどに金や資源を割くよりはその金を人の生存のために向けた方がどれほど生産的か。
そういうことを言うとまた、「冷たい」とか「感情がない」とか言われそうだな。
ヒトの「感情」を「くだらない」と言う人間と、「自分たちが」引き起こしている貧困から目を背けて異国の祭りにうつつを抜かしている人間と、果たしてどちらが「冷たい」のだろうか。
私は太宰の「人間失格」を「ホモ・サピエンス」失格であっても、「人間」失格ではないというふうに読んだ。


クリスマスを5年間我慢する代わりにその期間は徹底的に貧困問題に取り組もう、というような発想が出てこないのは、人が「絶対精神」の忠実な僕だからだ。
それが続く限り、人類は生き残っていくのだろう。
それはいいことかも知れない。
まあ、この世界がどうなろうと私の知ったことではないよ(もし将来私が政治家になったらこの日記は問題発言としてマスコミのやり玉に挙げられるんだろうな)。


日記のプロフィール通り、私は「絶対精神」に宣戦布告した愚か者である。
世界にとって私は排除されるべき人間なのだろう。
そして世界は躊躇せずに私を排除するだろう。
その時にはおとなしく排除されるつもりだ。
それが私の美学である。


私にクリスマスが訪れるかって?
まさか。
お前の思想は単なるルサンチマンではないかって?
その通りだ。
ニーチェもきっとそうだったに違いない。
そういうものも世界は取り込んでしまう。
恐るべき「絶対精神」すなわち、「神」