田原総一郎に質問をした。
単独インタビュー、ではない。
もう一つのゼミのゲストとして来ていたのだ。


まだ全身に緊張が残っているのが解る。
私は自称「右」の例に漏れず、権威主義だから、尊敬している人間には体が絶対服従の姿勢になってしまう。
ただし、尊敬はしているが崇拝はしていない。
念のため。


質問は2つ。
1つは途中で議論になったので肝心の質問が出来なかったが、聞きたいと思っていたことは聞けたのでいい。


感想
やはり話が通じないと思った。
成功している人は失敗するものの気持ちがわかることはない。
それは人の性質ではなくて、結果に因るものである。
すなわち、失敗している時期にはわかっていたことが成功した途端に解らなくなってしまうというものだ。
35年前ぐらいの田原さんならこの話は通じたと思うのだが・・・。


ちなみに。
てめぇの質問のレベルか、表現のレベルが低すぎて(次元が低すぎて)伝わらなかったんだ、という批判は甘受する。
もしそうなら、以下の批判は馬鹿の世迷いごとに過ぎないから相手にしなくてよい。
私自身はそうではないと思っているが。
まあ、独り言だから別にいいのだけれど。


問題は肥大化した自己(自尊心)をどうやって押し込めるのか、ということだ。
人は動物だから、相手(人、社会)に否定されると、負の感情を抱く。
その極端なのが殺意だ。
私も成長の過程で、他者を排除しすぎたために、大きすぎる自尊心を抱えてしまった。
勿論、それに見合う実力はない。
当然、社会からは否定されることになる。
その時に私は、社会に対して殺意を抱く。
私には自爆テロ犯気持ちがわかるのである。
それから殺人犯。
ねじ曲がった欲望、根拠のない殺意は、抱く人と抱かない人がいるのだろうか。
私は誰もが抱くものだと思う。
だが実際にそれを実行するものは少ない。
自分を抑えるのだ。
自分という存在を超えた大事なものが社会にあると信じ込むのだ。
私が社会に対して殺意を抱きつつも行動に起こさないのは(単に疲れているということもあるが)、私自身を卑小な存在と考えるからである。
私だけではない。
ニンゲンノイノチハコウモウヨリモカルイ
私はただ「かけがえのない」という存在を否定したいだけなのである。


思考が混濁してきた。
要は、我々少子化世代の人間は、大事にされすぎてきたということだ。
だから、自分に対する攻撃すべてに過剰に反応してしまう。
これが田原さんに伝わらなかった。
確かに、よく考えれば、自分を大事にするなら殺人なんか起こさない。
だが、それは自分を理性でコントロールできる(田原さんのような)人に限るのではないか


(この辺は私の卒論のテーマに近くなって来ているからそのうち整理して書く)


成功しなかった人間は成功した人間の慈悲にすがって、去勢された羊として生きろというのか。


ああ、だめだ。
もう一度頭を整理してから書こう。
まとまったらHPの方にアップする。