5/4である。
東京レポートはまだ手つかず。
たぶん明日までかかる・・・。


東京から帰ってきて、ろくに休息もとれないまま、いつもの土曜日を迎える。
土曜日は午後から勉強会(従って、午前中は部屋の片付けなどその準備)、夜はバドミントン。
バドミントンの後に不定期の夕食会がある、という1日。
最近はこれに、もう1つスケジュールが追加された。
とある知人の方が短編アニメーションを作成するということなので、そのお手伝いをさせていただくことになったのである。
とはいえ、そちらの世界には無縁な(まるっきり関わっていないわけではないけどね)私に出来ることなど何もない、と思っていた。
が、私がその方から頼まれたのは、ストーリーの提供である。


確かに、物語らしきものはいくつか書いてきた。
今も時折、世界を記述するではそれまがいのことはしている。
(更新滞っているな)
だが、だからといって私がまともなストーリーのプロットが書けるかというと、そんな才はない。
それでも信頼してくださった方の期待に応えようと、私で良ければと引き受けることにした。


以上が、上京直前までの状況(狙っていないぞ、断じて)である。
で、上京前日に初めてオンラインの打ち合わせに参加して、上京後その方に直接お会いして仕事の内容を確認した、というのは東京での話なので東京レポート4-5参照。
この日は、持ち帰った仕事を、勉強会前までの限られた時間に仕上げるという課題をこなしていた。


東京で詳細な要望を聞いてから2日。
その日の打ち合わせの最中に思いついたものが1本、空港から自宅までの自転車の車上(約30分)で、3本、帰宅後〜この日の午前中までで2本、計6本の筋を思いついた。
「前向きで肯定的な」という縛りは私にとって容易な課題ではなかった(上記のブログ見たら理由が解るだろう)が、よくもまあ、これだけ思いつけたものである。
人間は追い込まれた時に本領を発揮する。
だから私は様々な人の要望に応えようとすることで自分を追い込むのである。


思いついたのはよいが、それを伝えなければならない。
しかも、勉強会のあとは、バドミントンで、帰宅後すぐに打ち合わせが始まるから、勉強会の前に提示できないと打ち合わせには間に合わない。
という更に追い込まれた状況で、思うように動かない体をしかりつけながら、部屋の片付けをしつつ、6本の物語の筋をまとめた。
メールを送れたのは、勉強会開始5分前である。
人間追い込まれれば何とかなるものだ。


幸い、お送りした物語は、先方の使用に耐えうるものだったらしい。
体を張った甲斐があったというものである。


勉強会、バドミントン、の後で、打ち合わせに参加。
27:30頃に、自分のやるべきことを果たしたと判断して失礼させていただいた。


私はもう自分のためには無理をする必要がない。
人生を既に降りてしまったからだ。
だが、私を必要としてくれる人のためには、いくらでも無理をする。
それだけが私の生き甲斐だからである。
これが今回の上京で見つけた「私は何のために生きるか」という問いに対する答えである。
(この問いの定義に関しては5/4のブログを参照)
私は、私を必要としてくれる人のために生き、そのために仕事をする。
私は、私を必要としてくれる人のためにこの体を使い、そのためにこの体をメンテナンスする(今のところあまり上手くいっていないが)
私は、私を必要としてくれる人の期待に応えられるようになるために努力し、自らを磨く。
私は、私が必要とされていない場に於いて自らの身を引く。
彼らの邪魔になることは私の本意ではないからだ。
私は、私を必要としてくれる人のために私が出来うる最大限のことをする。
そして、そのためにはいくらでも無理をする。
この体は既に私のものではない。
私を使用してくれる人のものである。
私は断らない。
私は私自信の都合より私を必要としてくれる人の都合を優先させるからである。
私は求めない。
私は必要とされることで生きる理由を与えられているからである。
私は、だから、生きている。