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- 作者: 須原一秀,浅羽通明
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2008/01
- メディア: 単行本
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著者:須原一秀, 浅羽通明
良書・・・とは言い切れない。
著者とはこの世界の見え方(たとえば多くのものは「死」を二人称や三人称でしか語っていない、など)に関しては9割まで意見が合致するが、1割は意見が全く合わず、肝心の「老醜を嫌い自我を尊重するための自死」に関しては、「くだらない」の一言である。
そんなことは15歳の少年が考えるならまだしも(私もそう考えていたことがあった)、65にもなったご老体が、しかも哲学者がそんな「くだらない」ことを主張してどうするんだ。
自我など幻想に過ぎないのでまったく尊重に値しないし(だいたいそういう人間はナルシストで自意識過剰である)、「老醜」とはまさに「パースペクティブ(眺望固定病)」である。
この人は本当に哲学者で、ニーチェを読んでいるのだろうか?
100歩譲って、この書が哲学書ではなく、著者は哲学者ではなく1個人として本書を遺したとしよう(だったら帯や副題から哲学の文字を外せ)。
そうだとすればこれはただの「自殺エッセイ」に過ぎず、書かれているのは特殊な事例で特に普遍性を持つものではない。
また、この点は最近私の考えが変わったのだが(以前は自我幻想にとらわれていたので、発狂するくらいなら死にたいと思っていた)、本人が「死にたい」と意思表示しても、その人と二人称の関係にある誰かが、その人を「愛したい」と思っているなら、後者の方が優先されるべきだと思う(これは下記とは矛盾しない。それでも、本人が強く「死にたい」と思っているならたとえ「二人称」の愛でも止めることは出来ない。出来ることはせめてその人を殺してあげることか、心中することであるが、そこはその人に対する「愛」が試される場面である。別にその人を殺してあげられなくても、非難されることはない)。
まして本人が「意思表示」出来なくなったのなら、優先されるべきは本人の「リビングウィル」ではなく、今生きている二人称のその人の意志であろう。
残念ながらそのような関係が「生前」に築けなかった人は(端から見て)可哀想な目に遭うだろうが、それはその人の自己責任であると同時に、その人はもう「死んで」いるのだから、可哀想でもなんでもない。
人形は自らの扱われ方をコントロールすることが出来ないが、それは人形にとって何の悲劇でもない。
それでも本書は
という点で大いに価値がある。
尚、本書におけるキューブラー・ロス女史の死に瀕した際の豹変についての評に関しては納得がいきかねる。
詳しくは以前書評を書いた『誰もが知りたい上手な死に方、死なせ方』を読めば解る。
この著者の出した結論は短絡的すぎることが解るだろう。
一読しても害はない。
「葉隠」に少しでも興味関心のあるものは、その入門として読んでみるのもいいだろう。
三島ファンは・・・読まない方がよいかも知れない。
少なくとも私は気分を害した。