Googleとの闘い―文化の多様性を守るために

Googleとの闘い―文化の多様性を守るために

書名:Googleとの闘い―文化の多様性を守るために
著者:ジャン‐ノエルジャンヌネー, Jean‐No¨el Jeanneney(佐々木勉:訳)


で、くだらん本(爆)。
アメリカ嫌い!、グーグル嫌い!、フランス人が書いたことが一目瞭然な本。


「文化の多様性を守る」という副題が無ければ絶対に買うはずの無かった本。
以前一度目にしていたが、「なんだ、また出たか因循姑息」と思ってスルーした。
今回目にした時、「文化の多様性を守る」というキャッチが気になったのでとりあえず買って読んでみることにした。
「多様性を守る」と私の持論、「人は物語を紡ぐために生きる」とが密接に関わっているということに思い至ったからである。
物語は差異から生まれる。
世界が均質化することは物語の消滅を意味する。
そういう意味では、グーグルによって世界が1つのネットワークになることで多様性が失われるとしたら、それは物語の危機なのかも知れない、そう感じたのだ。
また、1点の非もなさそうな「グーグル・ブックサーチ」プロジェクトに問題があるとすればどんな点か、それに対してどのような対案を提示するのか、という点にも興味があった。


[8/27 追記]
確かに、グーグルの問題は解った。
数多ある書籍の中から「グーグルが選んだ」本だけを残すことで失われるものが大きい。
ただ、それに対しては「じゃあ、あんたがたが全面支援して(つまり金を出して)あなた方の国の本を「全て」スキャンしてもらうようにすればいいではないか、という単純な反論が出来る。
何も国産にこだわることはない。


同様の危惧、「英語」が優先される、という点についても確かに問題である。
特に日本のような特殊な言語を使用している国にとっては死活問題だ(これは新しいウェブ時代におけるもっと普遍的で最も大きな問題の1つである。私はナショナリストではないから、日本人の英語能力をより高めるという方向の解決策(台湾や韓国のように英語教育を徹底してやる)でよいと思うが)。
だが、だからといって、対抗して自分たちで「閉鎖的な」ネットワークを形成する意味はまったくない。
そこはお得意の政治・外交力を駆使して、自国の言語も英語と同じ比重で(やや疑問は残る。次の論点と絡む。すなわち、多くの人が英語を使っているのだから、ネットが英語メインになるのはある程度仕方がないのではないか、という見方である)扱わせればよい。
なぜ自国(或いはEU)で閉ざす必要があるのだ。


3点目はその衆愚主義である。
まったくもって鼻持ちならない。
大衆に任せているとろくなことにならない、なぜなら彼らは文化のなんたるかを知らないからだ。
所詮奴らはヤンキーだから、高尚な文化なんて理解出来ない。といった高慢さが溢れている。
「不特定多数」の力を信じることがWeb2.0における最も重要なポイントなのだから、彼(ら)はそれと真っ向から反対していることになる。
抵抗勢力である。


彼(ら)は歴史を強調するが、本当に歴史のなんたるかをしっているのか。
私も、多数が指示するもの、殊に芸術作品や書籍に関しては、必ずしもそれが良いものとは思っていない(むしろ悪趣味なものばかりで嫌気がさすことが多い)。
だが、歴史的な視点から見れば、勝つのは必ず衆である。
そして、衆が支持するものが「正しい」のである(個人的な感性まで大衆に迎合するしかないが、それはあくまで個人的に大切にしていくべきものである。自分が正しく、衆が間違っているなどという考えは愚かしくかつ有害である)。
衆が指示しないものはどれだけのエネルギーを注いでも残ることはない。
まあ、趣味でやる分には問題ない(多くの芸術作品がそのおかげで今まで残っているのだから)。
だが、ウェブ時代の抵抗勢力として、彼らには退場していただくのが良いだろう。
ああ、新しい時代に適応できない人はこういうことを考え、主張するのね、ということを知りたい人は読んでみると良い。
多分あきれ果てるだろうけれども。