誰もが知りたい 上手な死に方、死なせ方

誰もが知りたい 上手な死に方、死なせ方

書名:誰もが知りたい 上手な死に方、死なせ方
著者:E.ロウ


良書。


誤解のないようにあらかじめ述べておくと(大いに誤解されても構わないのだが)、最近特に死を意識するようになったとか、身近な者の死期が迫っているとか、極度の鬱状態にある、訳ではない。
別にことわるほどのことでもないのだが、この国の極度に死をタブー視する社会風潮を意識するとこう書かざるをえないようなきがしただけである。


私は常に死を意識している。
死について考え、問い、自らそれに答えている。
HPに掲載した断章(記述通り未完だが)に書いた時と今の考え方はほとんど変わっていない。


最近になって1つ直観が付け加えたのは、死とは「永遠となること」である。
これは「死んだ人は永遠になる」という一般的な言説とイコールではない。
私の直観が訴えたのは、現在にとってのみ意味を持つ「死」は(死した後は当人にとって死はなんの意味も持たない。死んだ人は死なないからだ)、現在抱いているイメージが「永遠」になることを意味している。
その人が思い描くイメージが恐怖や不安など暗いものでしかなかったのならば、その人にとっての「死」(くどいようだがその時点での「死」)とは、そのような恐怖や不安が永遠となることを意味している。
つまり、地獄である(恐らく人はこのような不安や怖れと永遠を結びつけて「地獄」の概念を創出したに違いない)。


私が描いているイメージは、「その先にあるもの」である。
これは既に言葉の限界に到達している。
語り得ぬものに関して沈黙するしかないので、敢えてこれを説明するつもりはない。
とにかく、「その先にあるもの」である。
私の場合、優れた音楽がそれを見せてくれた。
J.S.バッハの宗教音楽などが好きなのもそれらが「その先にあるもの」を私に見せてくれるからである(ただし、私は無神論者である。今でも神と闘ってはいるが)。


・・・・・・。
話がそれにそれた。
とにかく、私にとって死は「その先にあるもの」が永遠となることである。
勿論、ネガティブなイメージはない。


で、本書の評。
冒頭に述べたように良書である。
死の研究の第一人者であるエリザベス・キューブラー・ロスの研究を元に、死に至る本人の心理過程、周囲の人の心理、現代終末期医療の現実などが詳細に述べられ、具体例を挙げながら、起こりうる問題にどう対処するか、その対処法を示している。


魂がどうの、スピリチュアルがどうのというエリザベス(と著者?)の死生観は別にして、本書は自分の、或いは親しい人の死に臨んで、どのようなことが起こりうるか、それにどう対処していくかについての有益な情報あるいはヒントが充実している。
死は人間が出会うイベントの中でも1回限りのものであり、取り返しのつくものではないため、最も対処が困難で後悔の残りやすいものである(勿論死んでしまった本人は後悔のしようがないのだが。死人に口なし)。
だからこそ、あらかじめどのようなことが起こるのか知っておきたい。


まあ、普段から突発的な出来事を楽しめる性格ならば、自分や周囲の者の意外な行動を楽しんで死に、或いは看取ればよいのだろうが、多くの常識的な人にとっては出来るだけ後悔がないようにしたい出来事だろう。
そのためにも、本書の知見が役に立つ。


手際よくこなすには、人に誉められるような死に方をするためには、などと効率やつまらない自尊心を追い求めるために死の準備をするのではない。
そもそも効率よくなんてこなせないし、人に誉められる死に方が本人にとってよいものであるとは限らない。
そんな卑小なことではなく、大切な人を納得のいく形で看取るために、あるいは死に際してその苦しみを緩和するために(出来るだけ苦しんで死にたい人は勝手にそうすればいい)、知っておきたい。


ドラマのような、落ち着いた理想的な最期など迎えられるものではない(おりしも今はまっている「ちりとてちん」がまさにそのような場面にさしかかっている。ドラマはドラマで美しい方がいいのは言うまでもない)。
どたばたし、直前まで安定せず、傷つき、傷つけられ、人間関係が壊れ、早すぎ、あるいは間に合わず、ということに必ずなるのである。
備えていても死者が出る災害と同じで、万全の備えのつもりでも必ず何かしらの後悔が残るのである。
それが人が死ぬということである。


その様な不確実性の塊である人の死に対して、本書はよい処方箋となる。
少なくとも今の、或いは将来の不安を和らげることが出来る。


死は万人に等しく訪れる。
生涯、運転しない人も海外に行かない人も結婚しない人もいるだろう。
しかし、死なない人はいない。
それだけでも本書の価値は推して知るべし、であろう。