国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

書名:国家と神とマルクス―「自由主義保守主義者」かく語りき
著者:佐藤優


この書の評は難しい。
本書に対する私の期待、タイトルから期待される内容、本書そのものに盛り込まれている情報、そのいずれの観点をとるかによって本書の評価が180度変わると感じたからだ。
従って、次の3点に分けて評することにする。

  1. タイトルと内容の合致
  2. 展開されている論
  3. 物語としての本書の評


1.に関して言えば、本書は限りなく0点に近い。
私は本書をタイトルに惹かれて購入したが、そういう方も多いと思われる。
尤も、それは私の知識不足で、この人は既に『国家の罠』という書で一躍有名になった「外務省のラスプーチン」と呼ばれた男である、ということぐらい知っておくべきだったのかも知れない。
それにしても。
以前読んだ佐野眞一の『この国の品質』といい、本書といい、評集なら評集と書いて欲しい。
勿論、タイトルを見ただけで目次すら読まずに本を買う私の行動には問題があるが、それにしても書き下ろしを期待して買ってみたら評集(しかも知っている著者だとその半分ぐらいは既読だったりする)だったら、それは購入者を騙しているようなものではないか(勿論騙される方が圧倒的に悪い。悪意のある行為ではないから)。


まあ、書き下ろしでなかったことは私のミスであったとして。
本書の内容から言わせてもらえば、このタイトルはふさわしくない。
少なくとも「マルクス」は外して欲しいものである。
確かに、国家・神・マルクスについて、本書の中で言及がなされている。
しかしマルクスに関しては、本書で著者が、獄中で感銘をうけたと書いたヘーゲルと同じく、著者の世界理解に関係するものであり、著者の主張そのものにはなんら関係していない。
著者がマルクスで説明する資本主義の論理を、私が、見田宗介や(その著書を通して垣間見た)ボードリヤールなどから理解しているように、それは何もマルクスの専売特許ではなく、また『資本論』を読まなければ理解できない論理ではない(ただし、勿論どちらが先かと言えばマルクスが先であり、私が自らの世界理解の窓としている学者が『資本論』の影響を受けていないとは言い難い。しかし、それでもマルクスは必然ではない)。


本書はまた、タイトルから期待されるような、また本書の中で著者自身が述べているような、国家と神とマルクスの調停或いはそれぞれの相克について多くを語ってはいない。
著者は本書の中で、愛国保守と、キリスト教と、マルクス主義は著者の中で矛盾なく共存し、実践できると述べているが、それらがどのような関係にあり、著者の中で融和しているのかについて詳しく説明していない(本書全体から著者の主張や立場を総合すれば、確かにこれらは矛盾せずに共存しているように思われる。ただし、著者の場合、そのいずれにおいてもそのラディカルな部分を取り入れていないので、このままだとその表層的な部分での共存のようにとるしかない。それではあまりにも浅い)。
おそらく、著者はまだ自分の思想を整理しきれていないのだろう。
本書では、その思想の片鱗が垣間見られるだけでそれらがどのように連関するのか、体系をなすのか(あるいはなさないのか)、まだ見えてこない。


そういう意味では本書は大いに期待はずれであり、特に「国策捜査」に関しては、私の関心から大きく外れることになるので(私は「国家の意思」はすなわち一般意志の体現、すなわち神(キリスト教的な或いは神道的な神ではない)の意志の現れであると思うし、それが不条理なことを命ずることは何も不思議なことではないと考える。何もヘーゲルを持ち出すまでもない。また、ある日突然何の落ち度もない個人に厄災をもたらすことも特に不思議なこととは考えない。当の本人にとっては不幸なことではあるが、それだけでなくても世の中は不条理な出来事で満ちあふれている)、その内容が中心を占めた序盤で本書を放棄しようとすら思った。


しかし、タイトル(やそこから私が期待した内容)からは外れるが、本書に盛り込まれた情報と著者の分析、更に著者の思想の片鱗はどれも秀逸である。
従って、2.の観点から述べれば、本書はかなり質の高い良書であるということができる。
特に私が高く評価するのは、北畠親房とその著作『神皇正統記』に対する著者の分析である。
南北朝の動乱で有名な北畠親房は、著者の指摘する通り、「神の国」という言葉が戦後民主主義の中で国粋主義の表現として忌み嫌われてきたのを受けて、どちらかというと否定的なイメージでとらえられる人物である。
戦後民主主義教育を受けてきた私もその例外ではなく、北畠親房のことを排他的な国粋主義者とばかり思い込んでいた。
しかし、著者は『神皇正統記』から他者に対する「寛容の精神」を読み取り、日本古来の伝統、国体(この言葉も本書を読んで随分とイメージが変わった)とはむしろこのような「寛容の精神」にあったのだと主張する。
資料批判能力のない私には実証は不可能であるから、これは本書を読んだ上での直観的判断でしかないが、その歴史理解・文献理解は正しいと思う。
そして著者はそこから、日本古来の伝統からすれば、むしろ明治以来の天皇を中心とした中央集権体制と、「大日本帝国憲法」こそがこの国にとって外圧に対応するためにやむなく取った不自然な姿であったと論ずる。
著者にとってこの国の理想の姿とは、天皇という権威と権力とが分離している状態、「寛容の精神」にのっとったこの国古来の伝統を重視する保守主義、であり、「日本国憲法」は(偶然にも)まさにその理想の状態を作り出している、というのである(著者は自ら護憲であることを明らかにしている)。


真に歴史を知るものの発言には説得力がある。
著者が「保守」なのに「護憲」を主張し、「国体」を重視するからこそ「国旗・国歌法」には反対であると述べていることに関しても、その発言だけを聞いてみると論理破綻しているようにみえるが、本書を読んだ後では十分に納得出来る。
それは、著者の展開する論理が明快で筋が通っていることも重要であるが、それにもまして、著者の発言がただの思いつきや思考実験の類ではなくて、その深い歴史理解を背景にしたものであるということが著者の論に説得力を持たせている。


ただ1つ残念なのは、著者がその思想を展開するに辺り、あまりにも衆とかけ離れた道具を用いようとしているところである。
今更「講座派」や「労農派」を持ち出したところで理解できるものはほとんどいないだろう(尤も、この点は壇上となった誌の読者と対談者に対する配慮であったとも考えられる。であるとするならば、著者の知的水準はとててつもなく高いということになる)。
マルクス主義の流行った40年前ぐらいならまだしも、現代ではごくわずかなその筋のオタク(敢えてオタクという。学者は一種のオタクである)にしか通じない言葉である。
その概念や理論を説明するのにそれしか道具がないというならばそれでもよい(例えばイデア論イデアプラトンといった太古の言葉や人物の使用した概念を用いてしか説明し得ない)。
しかし著者の主張は、もっと解りやすい道具を用いて説明することが可能であるはずである(残念ながら私は具体例を示すことすらできない無学の徒である)。
著者の目的が「狭い世界での承認」を求めてのものならばそれでも良いのかも知れないが、仮に何か訴えたいことがあるのであるとするならば、「世間の言葉」で話すように(必ずしもそれで考える必要はない)しなければ多くの者の理解や賛同を得ることは出来ない(これは本の売れ行きとは何の関係もない。本は最も顕示的な消費のされかたをするものの1つである。買ったこと、読んだことがそのままステータスとなり、内容の理解は必ずしも売れ行きに伴うとは限らない)。


3.に関しては、1.でも述べたように、本書の内容はタイトルから(私が予測したものと)は離れたものであり、その意味では本書に物語を求めていた私の方が間違っていたと言える。
だが、歴史こそまさに人類が織りなしてきた物語であることを考えれば、その歴史に新しい観点を与えている本書の洞察は、物語という意味でも些かの評価は出来る。
ただし、あまりにも断片的すぎるので高い評価をすることは出来ないが。
個人的にはカバラ思想における創造神話についての徹底ぶりに関する話は非常に興味深かった。


それにしても。
インテリジェンスとはまさに彼のような人物のことを指すのだろう。
哲学という点では些か疑問も残るが(ヘーゲルの読解など)、そのインプット、知見、知識、発想のどれもが敬服に値するものである。
目的合理性を重視するならば、もう少し彼の中で思想が熟成された後に出された著作を読むのが効率的ではあるが、単にその知見に触れるためになら近いうちに出される彼の著作を読むことは非常に有意義であろう(但し国策捜査について書かれた部分を除く。これは単に個人的な趣味の問題)。


以上の考察を踏まえて結論を述べる。
思想・政治・歴史に携わる方、何らかの情報を発信する方、にとって本書は非常に有益な書である。
上記に該当しない方でも、右よりの思想を抱いているという自覚のある方は、本書を読んで本当の「保守」とは何であるかを再考して貰いたい。
特にこの国の歴史、特に近現代史に興味がある方にとっては、本書の歴史理解は新しい気づきの一助となる。
切り出しは雑だが、かけた時間と値段以上の収穫が得られるはずである。
問題はあるが、良書である。