テーマ
ゆとり教育」再考


らしいが、なにをおいてもまず「今更?」と思わざるを得ない。
これは、私が特に教育に関心をもっていなかったとしても、昨今の情勢によほど疎くない限り抱くはずの感想である。


ゆとり教育は」(少なくとも私が知る限り5年前には)次の2点において否定されている。

  1. 学力低下−(特にグローバリズムが進行している今日)国際競争力を低めることになる
  2. 学力格差−私学の存在や教員の質の差によって格差が生じる

従って、仮に「ゆとり教育」を再考するのであれば、上記2つの質問に答えなければ意味のない議論となる(なぜなら上記2つの問いによってそこまで築き上げてきた論を一瞬にして破壊することができるから)。
だからこその「今更?」なのである。


←予測される反論
確かに、「ゆとり教育」と称して授業時間やカリキュラムの内容を削減したことは時代の潮流に逆行していた。
しかし、1.「総合的な学習の時間」の成功例などに見られるように、「ゆとり教育」の精神やそれに基づいた授業の内容そのものは良かったのではないか。
2.学力、学力というが、学力とはいったいなにか。試験で点数を取ることだけが学力ではないのではないか。先日行われた「OECD生徒の学習到達度調査」の例に見ても解るように、現在日本の学力で低下しているのは「読解力」であり、また(「生きる力」に直結する)必要な力とは「問題解決能力」であって、それらは丸暗記型の詰め込み教育では習得できないものではないか。


→反論に対する反駁
1.について
ゆとり教育」が否定されたのは、その教育内容ではなく、その制度である。
問題はその制度では学力低下と学力格差をますます助長してしまうことであって、国家の公教育制度として「ゆとり教育」を採用することは間違っても出来るものではないということが明らかになったのである。
仮に、「理想の教育」を語るのであれば、既に一度導入され、そして非難囂々の中で取り下げられた制度としてのイメージが定着した「ゆとり教育」という言葉を使うべきではない。
また、もし「理想の教育」を語るのであれば、呼ぶべき人は政治家ではなくて学者であろう。
政治家を呼ぶ意味は、制度としてこれを機能させるためにどうするか(具体的にはお金の話)であり、その場合には最初に述べた2点(学力低下・学力格差)についての言及があってしかるべしであり、それが克服されて初めて制度としてその教育が採用されるのであって、実現される可能性のない(ということが証明された)「理想の教育」を政治家と語っていったい何になるのか。


2.について
詰め込みによって身につく力を「学力」と呼び、総合学習等によって身につく力を「生きる力」とした場合、以下の3つの理由から、「生きる力」よりも「学力」が優先されるべきであると言える。
一、現在の企業の採用が学歴重視であり、学歴を身につけるために必要なのは「学力」の方であること。すなわち社会の外で「生きる」力よりもまず先に社会の中で「生きる」力を身につける方が先であること。
二、「生きる力」を発揮する機会のある人がごく限られているのに対して、「学力」を発揮しなければならない人(すなわちペーパーテストを受ける人)が圧倒的に多いという事実。
三、そもそも「学力」が身についていない状態で「生きる力」(自然の中でのサバイバル、というなら話は別であるが)なるものが身につくはずのないこと。江戸時代と戦国時代の区別が付いていない人に黒船来航時の状況と現在のグローバリゼーションの状況との類推を求めても意味がないということ。天才的なひらめきは、数多くの知識が偶然結びついた時に起こるのであって、そもそもその知識のプールを持たない者が突然天才的なひらめきを見せるはずがないこと。自分なりの問題解決法はそれまで積み上げてきた経験と知識の中から導出するものであって、そもそもそのような蓄積が無いものにそのようなことはできないということ。


だいたい、私学のしかも早稲田といえば反権力の先頭に立ってしかるべき存在なのであって、本来は「ゆとり教育」なんていう無責任な制度を実施したやつはどこのどいつだ責任とれ!だから政府は駄目なんだ、俺たちにやらせろ!(by 大隈)というぐらいの気概を見せるべきではないか(まあ、実際にやらせると既存の政府よりもとんでもないことをやらかすのだけど)。
それが元文科相の、役人の答弁のような無駄に長いだけの話を行儀良く聞いているような有様では。
これを楽しめという方が無理であろう。


議論
テーマに関しては「わかりやすくて人が集まりそう」という理由で、数の暴力により決定した、ということにしておく(そうでないと先に進まないので面白くない)。


肝心の議論は2時間超という十分すぎる時間の中で、少しも発展を見せなかった。
これは完全な偏見であるが、田原さんが出席されなかったことで、出演者の2人のガードがかなり甘くなり、ところどころ踏み込んだ(そしてその分危険な)発言をしていたように思えた。
問題となりえた発言を以下に並べてみる(記録はとっていない。何せ3時間ずっと上の門の門番をしていたので。従って内容に誤りがあるかも知れない)。

  1. 河村:教員の数を増やそうと言ったら財務省(?)が「(量は増やせないので)質を上げてください」と言った
  2. 河村:企業も以前と異なり、採用は実力主義になっている。例えばソニー
  3. 野田:ゆとり教育は格差を生んでいるという批判がある
  4. 野田:教育行政といえば財政の問題がある
  5. 河村、野田両氏:(少人数教育の成功例として、PISAで世界1位となったフィンランドを例に挙げる)
  6. (どちらか忘れた):東大入学者の親の平均年収が大学入学者全体の平均をはるかに上回っている


おまけ

田原(ビデオレターでの参加):成功しているところはみんなゆとり教育
←反論
 どのくらいの数が成功しているというのですか?
 それにはどれくらいのお金がかかっているのですか?
 成功の要因には教員の質がどの程度を占めているのですか?
 つまり、それは全国全ての学校で実施できてしかも成功が保証できるものなのですか?


1.は大変な失言で、これを文字通り解釈するならば、政府は表では「教育、教育、教育」(by ブレア)と言っていながら、実際には教育にお金をかける気などさらさらないということである。
実際に日本の教育予算は先進諸国の中でもGDPに占める率が圧倒的に低く、伸びもGDPの伸びに比してかなり小さい。


2.もかなりの失言で、具体的な証拠を要求できるような発言である。確かに、ソニー実力主義による採用を行っているが、それは技術者・クリエイターの分野の話で、ゼネラリストの採用はまだ学歴が強くものをいう状態にある。多くの企業の採用も、スペシャリストや中途採用を除くと、まだ学歴が重要な位置を占めていることは間違いない(ただしこれは推測なので、間違っていると思う人は証拠を私に突きつけるべし)。


3.4.の野田氏の発言を始めに引き出せれば議論はその方向で発展させられた。そうして初めて「ゆとり教育」について考えたことになった(といってもこのスタートだと一般論を追いかけておしまい、ということになっただろうがそれでもやらないよりはまし)はずである。


5.のフィンランドの例は、現在の日本の教育を考える上でそのまま参考になるものではない。なぜなら、フィンランドは高校の進学率が6割(日本は改めて言うまでもないが9割超)という状態にあり、いわゆる「複線型」の教育体系を採用している国である。
我が国で高校の進学率が6割になったら暴動が発生するだろう。
「複線型」を考えるという方向に議論を持っていくならばまだしも、単に「成功した」例としてフィンランドを引っ張ってきているのであれば、よほど聴衆を馬鹿にしているか、あるいはそれだけ調査・研究がいい加減なのかという話になり、これも看過できない。


6.は10年以上も前に苅谷武彦が『大衆教育社会』のゆくえで指摘したことであり(本書は勿論「ゆとり教育」なるものを徹底的にこきおろしている。しかも数字の証拠を挙げて)、現在はむしろその状況が幾分緩和したと聞くぐらいである。そんな古い情報を今更持ち出してくるところにこの問題に対する理解度と問題意識を疑わなければならないような発言である。


以上のように、(むしろ田原氏がいないことによって生じたと思われる)危険な発言が各所で聞き取れた。
しかし、これを十分に活かしているようには見えなかった。


上記のような批判は苅谷剛彦の著作を読んでいれば誰でも言えることである。
苅谷剛彦は「ゆとり教育」批判に先鞭をつけた研究者で、今も教育政策批判の最先端にいる学者である。
そのようなメジャーな教育論者に行き当たらないようでは勉強不足を指摘されても文句は言えない(あるいはわざと無視したのかも知れないが、そうであるならばその議論を横に置いて論じられている本シンポジウムの「ゆとり教育」再考は始めから聞くに値しない空論でしかなかったことになる)。
参考:苅谷氏の著作(nullusが読んだもののみ)

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

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検証・地方分権化時代の教育改革 教育改革を評価する―犬山市教育委員会の挑戦 (岩波ブックレット)

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教育改革の幻想 (ちくま新書)

教育改革の幻想 (ちくま新書)


だいたい、事前に下調べをしてくるのはどのような方向に議論が発展しても置き去りにされないように力を蓄えておくためであり、強引に調べた方向に議論を持っていくためではない。
自分たちの用意したパターンに強引に持ち込むのであれば、ナマである意味がない、ということは塾生が田原総一朗という天才インタビュワーから学ぶべき最初の原則であって、この有様では1年半も大隈塾をやってあなた方はいったい何を学んできたのですかと問いただしたくもなる。


対案


この国は与党もひどいがそれ以上に野党がひどすぎる国である。
どこかの、自ら万年野党であり続けることを訴えてやまない厚顔無恥な「確かな野党」と同一視されないためにも、現実的な対案を出すのが筋であろう。


私ならこうしたという論の展開を以下に手短にまとめる。


まず、私は以下の教育政策を提案する。

  1. 中学卒業試験を設け、不合格者は合格するまで挑戦し続けてもらう(その間無償)
  2. 高校から完全な複線型とし、普通高校の割合を減らして職業訓練学校(専門学校)の割合を増やす
  3. 他の予算を削ってでも、教育に予算を投じる


1.に関して。
教育は「権利」であることを再認識しなければならない。
この社会で生きていくための最低限の知識・能力を身につけることは、憲法で保障された国民の権利である。
これは勘違いしている人が多いので、声を大にして言うが、教育は義務ではなく権利なのである。
正確には、「義務教育」は権利なのである。
従って、国家は、最低限の「生きる力」(≒学力)を国民に保障する義務を有している。
それが公教育なのである。
従って国家が公教育においてやらなければならないことは、全ての国民にこの国の社会で生きていけるような最低限の力(現在では学力)を身につけさせることなのである。
それが身についていない者を卒業させてしまうことは、国家が自らの義務を放棄していることになる。
国家は、その者が必要な力を身につけるまで、何年でも何回でもチャレンジできるような仕組みを用意する義務がある(これこそまさに再チャレンジである)。
勿論、これは権利だから「放棄」することは自由である。
しかしその場合、中学卒業資格を得ることは出来ず、自らの力で「生きる力」を身につけなければならない(そのような「強者」の面倒を見る必要はない)。
これこそまさに自己責任である。


2.に関して。
1.と同じ非難が2.に向けられるだろう。
すなわち、現在のように大学卒業が正社員の絶対条件となっている社会で、その線路から外れることはその人にとって大いに不利になるのではないか。
また、「皆と同じように大学まで進学させたい」という親の願いはどうなるのか。


この二つの非難にはこう答える。
現在の大学進学率と就職状況を考えれば、企業の採用基準は「大学卒」ではなく、「どこの大学を出たか」すなわち学歴である。
本来学問に向いていない子を無理に名の知れていない大学に入れて見たところでそれが本人の就職にとって有利になっているとは到底言い難い。
そのために犠牲になった年月(高校・大学とストレートに進んでも7年)を何か(その子に向いた)技術・知識を習得させるために費やしていた方が、よほど就職という点では有利になっていたはずである(少なくとも大学の名前だけで相当不利な戦いを強いられる現在の状況よりはよほど道が開けている)。
遅くとも高校の段階になれば、その子が詰め込み式の学問に向いているかどうかぐらいは判別が着く。
「皆と同じように」という親(本人か?可能性は低いと思うが)の願いのためにその子の人生における貴重な時間を無駄にすることはもってのほかではないか。
勿論そのリスクを取るというならばとめることはない。
が、少なくとも「大学にいけばどうにかなる」というのは幻想であるからそのことを本人にも親にも解らせておく必要がある。


1. 2.共に、「線路から外れる」人がごく少数の状態ではその者たちが圧倒的に不利になるだけで制度は上手く機能しない。
これを避けるためには、進学のための条件(試験)のハードルを大幅に上げることで、ある段階で一気に線引きをしなければならない。
企業の採用はといえば、少子化・グローバリゼーションという状況の中で、「線路から外れ」ていても実力のある者(その実力を付けさせるための「複線化」である。「生きる力」はそこでやればいい。そうすれば本当の意味でのその人にとって役に立つ「生きる力」を涵養することができる。多くの人にとって役に立たないことを皆で一緒にやる必要なんて無い。「エリート教育」を全国民向けに実施するようなものである)を雇わざるをえないはずである。
ちなみに、仕事が外国に流れる、外国人に仕事を奪われる、というのはまた別の問題。


3.に関して。
以上のために必要な予算をしっかりと計上する。
これはごくごくごくごく当たり前のことであるが、この国では。殊教育については未だに精神論がまかり通っているという不思議な状態にある。
それとも文科相の役人たちは、働く時間が長くなって負担が増え、なおかつ給料が減っても教師はがんばるはずだ、なぜなら教職は聖職だから、と思っているのだろうか(空恐ろしい)。
少人数教育にするためには教師を増やさなければならない。
そのためにはどう考えてもお金がかかる。
それなのに予算を増やさない(ね、先の元大臣の発言が如何に危険なものかわかってきたでしょ)ということは、本気で教育改革などやるつもりがないということである。
私ならば、増税してでも必要な予算は確保する(1.の内容が真に理解されれば、特に低所得者層からの支援を得られると確信している。選挙にだって勝てる)。
それが、本気で教育改革を行う、という意思表明だろう。


以上の内容をまとめた提言を始めに行った上で、「さあどうだ」とゲストに答えを要求するというのが私の対案である。
勿論、読めば解る通り、これは現在の教育制度からかけ離れたものであり、この国の風潮(平等主義、中流意識)と真っ向から対立する意見である。
提案は雑だから<あらも多い。
反論の余地も大いにある。
しかし、大議論になることだけは間違いない
それでこそ見ている者を巻き込んだ大論戦になるのであり、それがナマの討論の面白いところなのである。


コマーシャリズムをぶちこわすテロリストになる、と宣言したくせに何食わぬ顔で普通の企業に就職してしまった私に言われるのもどうかと思うかも知れないが、最近の早大生(他の学生がどうであろうと知ったこっちゃない)は、守るものなんて何もないはずなのに、大学に入った当初から既に守りに入っていて、見ていて面白くない。
守るものがあんなにもあったのに、そんなことそっちのけで見ている周りの者がヒヤヒヤするぐらいの戦いを続けている田原総一朗の爪の垢でも煎じて飲め(おまえもな)。