東京レポート1-5

自尊心は心の渇きを満たすことはない。
遠方の友は砂漠のどこかで咲いている花のようである


体力は確実に恢復しつつある・・・はずだが、胃腸はそうでもないらしい。
まず、食欲が皆無である。
減退・・・ではない。
全く無い


少なくとも日が出ている間は何一つ口にしたいとは思わない。
強引に流し込もうにもコーヒーなどの刺激物は自粛中である。
この身体に食物を摂らせるには何かイベントが必要である。


この日は午前中やはりひとしきりダレた後、お昼も1時を過ぎた頃、ようやくホテルを出た。
昔塾で働いた後よく行った定食屋に行く。
とりあえず食べられそうなものを選んでゆっくり食す。


〜食後〜
18:00から再びバドミントンの予定がある(初日に共にバドミントンに参加してくれた方がもう一度催してくれた)。
この微妙に空いた時間で何をするか・・・。
体調から、最初に考えたのは散歩だった。
とにかく、身体を動かすのがよいだろうという考えではあったが・・・。


そして30分後、私はバッターボックスに立っていた。
Why?
Because I love baseball.
そういう問題じゃ、ないだろ。


まあ、連日甲子園を見ていたら妙に打ちたくなるのは解らなくもない(お前は鸚鵡か)。
が、何もこんな死にかけているときに。


で。
140kmのボールに挑んでいた。
ヲイ。
だがこれには訳がある。
「140kmを打つ男」の称号が欲しかったから、ではなく(いや、99%それだと思う)、意外にいける(関西弁?らしいね)ことが判明したからである。
で。
肉刺だらけになった
ヲイ。
2時間後にはバドミントンする予定の人がそんなことしてていいのか。
ま、まあとにかく140kmは打てた。
きれいに前に飛んだのは数球だったが。
今度東京に行くときにはバッティンググローブを持っていこうと固く決心した(お前何しに東京に行ったんだ?)。


140kmを打つ男
たぶん誰も呼んでくれないから自分で呼ぶことにする(カナシー)。


バドミントンは両手にテーピングをして行った。
何か間違っている気がするぞ。
運動は基本的に(荒療治によるダメージを抜きにすれば)身体にとってプラスである。
開催してくれた方、参加してくれた方に感謝する。


反対方向の電車に乗ったりと相変わらずの間抜けぶりを発揮した後、ホームに戻って飲み会に参加。
自分のことを敢えて説明しなくてもいい関係というのはやはり落ち着くものである。
身体の老成を待たずして、気持ちだけ既に年老いてしまっている自分としてはこれほど楽しいことはない。


優しい人たちから若さを分けてもらいながら、次の休みまでの毎日を若者として生きていく。

4ヶ月は長い。
だが、それは4ヶ月として考えるからである。
次の休みまで4ヶ月と思えば、意外に短いことに気づくだろう。
後ろ向きなのは仕方がない。
生きていくのに前向きになる必要はない。

インドに行ってきました
↑突然何を言い出すんだ?
ああ、これか↓

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

遠藤周作は『沈黙』に引き続いて2冊目(昔もう少し読んだかも知れない)。
近年私はよくインドに旅をする。
勿論、旅嫌いの私が実際にインドまで出向くことは(少なくともここ10年は)ない。
だが、直接行く必要など無い。
優秀な書の力を借りれば、世界中どこにだって行くことが出来る。
前にインドに行ったのは『ヒンドゥー教』という新書だった。
そこで私は(一般の)ヒンドゥー教徒のあまりの「現世利益」的思考に失望した(具体的に言うとヒンドゥー教徒の大半が解脱など望んでいないという記述である)。
その前は三島の『豊饒の海』第3巻である(この本では正確にはタイ)。
私のインドへの惹かれ方は、かつてのヒッピーのそれではなく、日本の仏教徒たちのそれでもない。
そこにあるニヒリズム思想にこそ私の憧れがある。


話は変って(やっぱり)。
本書は宗教(キリスト教)について書かれた良書である。
これが私のこの書についての評価である。
ご存知のように遠藤周作キリスト教徒(カトリック?)である。
が、単純な(純粋まっすぐな?どう言っても失礼にはなるが、敢えて言う)キリスト教徒と異なり、宗教についての深い洞察を持った作家である。
代表作『沈黙』では神の沈黙について語った。
今作『深い河』では、キリスト教の排他性と寛容性をインドという舞台を巧みに利用しながら語っている。
同時に、人生の意義、愛の意味、個々の人(無神論者も含めて)に神が如何に現れるか(ちなみに彼の書く作品にはいわゆる「神」は登場しない。この辺の記述は巧みであり、徹底している)を数人の人生を以て語っている。
良書である。
自分にはこの書の良さを表現する力を持たない。
従って、直接書に語ってもらうこととする。

突然、自分の愚かさを思った。今、彼が感じとっているものが、人間世界の中では何の役にも立たない。そんなことは百も承知しているのに、それに身を委せている愚かしさ。ヴァラーナスティの町は死の臭いが濃いのだ。あの町だけではなく東京も。それなのに小鳥たちは楽しげに歌っている。そして彼はその矛盾から逃げるために童話の世界を作り、帰国後もまた鳥や動物を主人公にした物語を書くだろう。


遠藤周作 『深い河』 十二章 転生