東京レポート1-4

[中断]
8/18である。
しっかりとダレている。
ここ数年でももっともダレているのではないか。
体力は回復しつつある。


この日は午前中ひとしきりのたうち回った後、昨日までに購入した書籍・文具を徳島へ郵送。
その足でコインランドリーへ行き(旅先で2回運動することになったため)、ホテルに戻ってまたダレる。


外はうだるような暑さだったが、少し汗をかいただけなのに、日陰で本を読んでいると猛烈な寒気におそわれる。
嗚呼
自律神経君は相変わらずやる気が無いようで。


お昼からカラオケに行った。
半年ぶりぐらいか。
腹筋は死んでいるし喉も嗄れていてろくに歌えやしなかったが、やはり私には歌うことしか出来ないらしい。

 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはかわいそう
 歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
 いえいえ それはなりませぬ
 歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
 いえいえ それはかわいそう
 歌を忘れたカナリア象牙の舟に銀のかい
 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す 


童謡「かなりあ」(詩・西条八十

歌に魅入られ、歌に全てを賭け、歌を見失い、歌に棄てられ、歌を捨て、それでもまだ私は歌う。
生きるとはそんなもんだということを教えられる。

老いもせず廃れもせずよろめかず堕落せず
常に輝きを失わない
そのような完全性が
私を引きつけてやまないのかも知れない

自分が捨てた優しさに癒されて私は恢復していく・・・。

やさしさが
あだになっても
ひとはきっと
やさしさに救われるよ


brave eyes   by折笠愛 as Quatre Raberba Winner


高校球児をうらやましく思う。
かつて自分もこの国の多くの少年たちの例に漏れず、高校球児になりたいと願ったことがあった(野球部には入れなかったけどね)。
興南高校、よくがんばりました。

美しく自由に躍動する魂たちよ
あなたがたもやがて知るときが来るでしょう
大切なのは結果ではなく過程なのだと
しかし大人たちが求めるのは過程ではなく結果なのだと


しかしあなたがたには忘れずにいて欲しい
今、このとき感じている充実感は
紛れもない真実なのだと


精霊の守り人 (新潮文庫)

精霊の守り人 (新潮文庫)

日本人はファンタジーが書けない。
それが私の持論であった。


ファンタジーの鉄則というものがある。
性と排泄について書かないということである。
ずいぶんとストレートな表現であるが、ずばり本質を著すとするならばこうなる。
ファンタジーは空想世界を書く。
そのためには読者に「現実」を認識させてはならない(その点で『萌え』なる理解しがたい性的興奮をあおるアキバ系のアニメーションなどは間違えてもファンタジーと呼ぶことは出来ない)。
ところで、この国の(純)文学は上の二つについて(特に性について)どちらかというと泥臭い表現をする傾向がある(今頭にあるのは大江の作品である)。
それがこの国の文学の傾向であり、それは文化的な背景を持つ。
キリスト教の伝統から性についての表現を避ける傾向のある西洋文学(勿論サドなど例外はある)とこの点で対照的であり、その土壌で育つだけに、日本の作家はファンタジーの創作には向かない、と考えてきた。


話は変るが(なぜなら上は私のファンタジーに関する一般論であり、この作品に関する内容ではないからだ)、ファンタジーで重要なのは物語である。
舞台や設定などの作り込みでは決してない。
その点は例えば『ゲド戦記』などを読めば自ずから明らかであろう(勿論それとて素人の手に余る作り込みがなされてはいるが)。
大事なのはそこで展開される物語なのであって、それは「おきまりのパターン」からの逸脱すら必要としない(むしろ多くの者に伝わる普遍性を持つためには「おきまりのパターン」を積極的に使う必要がある)。


ここまでの伏線が必要であるかどうかは別にして(ヲイ)、この作品の評価である。
一言で言うなら良作である(それを早く言え)。
どちらかというと「おきまりのパターン」の中での物語展開であるが、話の流れ、展開、結末、人物描写、心理描写ともに首肯できるものである。


↑素直に「面白かった、はまった、続編を読もうと思った」と言えばいいものを、何か一説講じてみようとするあたり、病的だよね。